大判例

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浦和地方裁判所 昭和31年(わ)484号 判決

本籍 埼玉県秩父郡影森町大字浦山二〇〇二番地

住居 同県北足立郡与野町下落合五六八番地

警察官 三上仲三郎

大正二年八月二十七日生

右の者に対する特別公務員暴行被告事件について、次のとおり判決する。

主文

被告人は禁錮拾月に処する。

この裁判確定の日から弐年間刑の執行を猶予する。

訴訟費用は全部被告人の負担とする。

理由

第一認定した事実

一、被告人の略歴と職務

被告人は、旧制青年学校卒業後農業に従事していたが、昭和一二年に埼玉県巡査となり、県下の加須、熊谷、深谷各警察署に勤めたのち、同二六年一〇月から本庄警察署に務め、同二九年七月からは同署管内上里村賀美巡査駐在所に勤務し、本事件当時司法巡査として犯罪捜査の職務にも従つていたものである。

二、被告人が捜査した事件の経過

昭和三〇年二月八日の夜と同年四月七日の夜、いずれも本庄警察署管内の埼玉県児玉郡上里村大字金久保地内道路上で、通行人が棒で殴打され所持品を奪われるという二つの同様の強盗傷人事件が起きた。以下、便宜上、二月八日の事件を第一事件と呼び、四月七日の事件を第二事件と呼ぶことにする。まず第一事件が発生するや、当時の本庄警察署長上原鹿雄は、同署刑事係長警部補玉田文三ほか数名の警察官をして事件の捜査に当らせたが、被告人は、事件の発生地が勤務する前記駐在所の管内にあつたため、その捜査員の一人になつた。その後、さらに第二事件が発生するや、近接地内であり手口の似ているところから犯人を同一人と見て捜査を進めた。そして、いわゆる聞込み捜査により上里村内に住む当時一七歳の少年植原明に疑いをかけ、同三〇年五月八日頃別の恐喝未遂罪を理由に同人を逮捕し、本庄警察署に留置したうえ第一事件を追究するや、同人は厳しい取調に堪え切れず、同村の柴崎稔陣(としつら、昭和九年生)とともに右事件を犯したと虚偽の自白をした。

そして、この自白調書等を資料として同月一三日浦和地方裁判所熊谷支部裁判官の右柴崎稔陣に対する逮捕状の発付を得て、翌一四日第一事件の嫌疑により同人を逮捕し、その後柴崎は同年六月一日まで本庄警察署に留置され、その間第一および第二事件について取り調べられ、ことに植原の供述に基き取調官の追究を受けたが、取調が厳しく、自己のアリバイをはつきりさせることもできなかつたので弁解が通らないものとあきらめ、第一および第二事件を犯したと虚偽の自白をし、これにつづく検察官の取調および浦和地方裁判所熊谷支部の公判廷においてもこの虚偽の自白をひるがえさず、同年七月二一日両事件により懲役五年に処せられるに至つた。同人はこれに対して控訴をし、また保釈を請求したが、保釈が許されなかつたので、早く刑の執行を受けたいとの考えから控訴を取り下げ、同年八月五日から服役した。

ところが、同年末に磯野義久なる者が窃盗罪により逮捕され、本庄警察署において取調中、第一事件は磯野ほか二名の、第二事件は磯野ほか一名の犯行であり、柴崎と植原の自白はともに虚偽であることが判明した。そこで柴崎は、翌三一年二月四日に釈放され、同年八月二日に両事件について無罪の再審判決を受け、また植原は、両事件のほか数罪を理由に医療少年院に収容されていたが、同年七月ごろ帰宅したのである。

三、罪となるべき事実

被告人は、上記のように柴崎稔陣が第一および第二事件の容疑者として取調のため昭和三〇年五月一四日から六月一日まで本庄市千六百二番地所在の本庄警察署に留置されていた間、前後数回その取調に関与したが、その際同人から右各事件の自白を得ようとして単一の意思のもとに、

(イ)  同年五月一五日午後七時過ぎごろから同署一階にある六畳敷の小使室において、前記玉田警部補、巡査徳江正、同徳江宇之吉および巡査部長高田槌造とともに柴崎稔陣に対し第一事件について追究したが、同人が繰り返し否認するや、同日午後一〇時ごろ、「おれがおとなしくしていればいい気になつている。」と言いながら、その部屋の奥の中央の柱を背にし入口に向つて正坐している同人の前に近寄り、その両ひざを自己の両ひざではさみ同人の頭髪をつかんで約三回前後に引張り、そのたびごとに同人の後頭部を背後の柱に打ちつけ、

(ロ)  また、同月一九日午後八時過ぎごろから同署一階にある六畳敷の宿直室において、同署捜査主任巡査部長四方田林雄、巡査徳江正、同徳江宇之吉および同野口松雄とともに柴崎稔陣に対し第二事件について追究したが、同日午後一〇時ごろ同人が返答につまるや、「はつきりしろ。」と言いながら、その部屋の奥の中央の柱を背にし入口に向つて正坐している同人の頭髪をつかんで約三回前後に引張り、

もつてそれぞれ暴行を加えたものである。

第二証拠

(第一回ないし第七回公判調書中の各証人の供述を記載した部分および公判外の証人尋問調書は、記述の便宜上、「証人何某の証言」として引用し、また公判および公判外を通じ二回以上尋問した証人の証言は、「第何回証言」として引用する。)

一、まず「被告人の略歴と職務」は、

(1)  検察作成の被告人の供述調書

(2)  被告人の第一一回公判廷における供述

(3)  証人上原鹿雄の第一回証言

を総合してこれを認める。

二、次に「被告人の捜査した事件の経過」は、

(1)  証人柴崎稔陣の第一回証言

(2)  証人植原明の証言

(3)  証人上野鹿雄の第一回証言

(4)  柴崎稔陣に対する強盗傷人事件の逮捕状、勾留状、起訴状および再審判決書の各存在と記載内容

(4)  豊多摩刑務所長作成の柴崎稔陣の刑の始期および釈放日時の証明書

を総合してこれを認める。

三、次に「罪となるべき事実」のうち、

(甲)  最初に記した被告人が数回柴崎稔陣の取調に関与した事実は、被告人の第一一回公判廷における供述によりこれを認める。

(乙)  前記(イ)の事実のうち柴崎稔陣のすわつた位置および被告人が柴崎に対して暴行をしたことを除くその余の事実は、

(1) 証人柴崎稔陣の第一回証言

(2) 証人玉田文三の第一回および第二回証言

(3) 証人上原鹿雄の第一回証言

(4) 玉田文三作成の柴崎稔陣の昭和三〇年五月一五日付供述調書の存在と記載内容

(5) 当裁判所の第一検証調書

を総合してこれを認め、

柴崎稔陣のすわつた位置および被告人が柴崎に対し前記のような暴行をした事実は、

(1) 証人柴崎稔陣の第一回ないし第四回証言

(2) 証人斎木喬の第一回証言

(3) 証人田島重蔵の第一回証言

(4) 当裁判所の第一および第二検証調書を総合してこれを認める。

(丙)  前記(ワ)の事実のうち取調場所が宿直室であること、柴崎稔陣のすわつた位置および被告人が同人に対して暴行をしたことを除くその余の事実は、

(1) 証人柴崎稔陣の第一回証言

(2) 証人四方田林雄の第一回証言

(3) 証人上原鹿雄の第一回証言

(4) 上原鹿雄作成の柴崎稔陣の昭和三〇年五月一九日付供述調書の存在と記載内容

を総合してこれを認め、

取調場所が宿直室であること、柴崎稔陣のすわつた位置および被告人が柴崎に対し前記のような暴行をした事実は、

(1) 証人柴崎稔陣の第一回ないし第四回証言

(2) 当裁判所の第一および第三検証調書を総合してこれを認める。

四、柴崎証言を信用した理由

右のように、罪となるべき事実の認定においては、証人柴崎稔陣の証言を採用し、これに反する証拠を採用しなかつたのであるが、その理由を左に説明する。

(1)  被告人から暴行を受けたこと自体について

まず柴崎証言のうち、暴行を受けた日時場所等に関する点は後述することにし、もともと稔陣が被告人から頭髪を引張られるという暴行を受けたこと自体に関する証言が信用し得るかどうかの点を考えると、次のような証拠からその証言は信用し得ると認めることができる。

すなわち、その一は、証人野口武、同芝岡清吉の各証言および両証言によつて同芝岡が作成したと認められる稔陣の供述調書(昭和三二年押第五号の五)である。これらの証拠によれば、埼玉県警察本部勤務の野口武警部が部下の芝岡警部補とともに昭和三一年一月二三日に当時まだ豊多摩刑務所にいた稔陣から本庄警察署における取調状況を聴取した時に、稔陣は被告人に頭髪をつかまれて前後に引張られたと供述している事実が認められるが(もつとも、その日時の正確性については後述。)、このように、稔陣が、他人から影響されることのきわめて少い時期に稔陣の供述に対し公平な立場にある野口警部に向つて、暴行をした者として被告人の名を挙げている事実は、稔陣の証言を信用すべき有力な証拠と見ることができる。なお、稔陣は、被告人の勤務場所、体格等から、本庄署に留置される以前から被告人の名を知つていたと述べているが(第一回証言)、この供述は信用することができるし、いずれにしても稔陣が取調の当時被告人の名をよく知つていたことは明白である。

その二は、証人斎木喬および同田島重蔵の各証言である。すなわち、証人斎木は、当時選挙違反の嫌疑で稔陣の隣房に留置されていた者であるが、「稔陣は留置された日の翌晩あたり夜遅くまで調べられた。壁を通して怒鳴り声がした。稔陣が帰つて来たのは翌日の午前一時頃と思う。その朝稔陣が顔を洗いに房を出たとき、手ぬぐいではち巻をして歯をみがきながら、私の房の前で私に、『ゆうべ頭の毛を引張られて頭を背後の壁にごつごつぶつけられた。』と語つた。」と証言し、また証人田島は、同じ選挙違反の嫌疑で当時稔陣と同房にいた者であるが、「稔陣は留置された晩あるいはその翌晩頃、いずれにしても留置された日から二、三日以内頃から夜調べに呼び出されていた。そして稔陣は、昼間、『ゆうべは調べの時髪の毛を引張られて痛かつた。田島さんのようにいがぐり頭にしておけば髪の毛を引張られることもなかつたろうに馬鹿を見た。』とこぼしていたことがあつた。」と証言しているが(いずれも第一回証言)、証人坂本政雄の証言は右斎木証言を動かすに足りるほど有力なものではなく、そのほかこの両証言を左右する証拠はない。なお、斎木証言のうち「壁を通して怒鳴り声が聞えた。」との点であるが、当裁判所の第二検証調書によれば、留置場の房の通風窓および小使室の手前の廊下上の仕切戸のうちいずれかが開いている時には小使室での怒鳴り声はかすかながら留置場の房内で聞えることが認められ、そして当時その双方とも必ず閉ざされていたと認めるべき証拠はなく(なお、証人渋谷正作の証言のうち当時通風窓が必ず閉ざされていたとの点は、当時選挙違反の被疑者が多数で各房とも満員の状況であつたこと、当時の署長上原鹿雄、捜査主任四方田林雄も必ず閉ざされていたとの確かな記憶があるとは証言していないことに照らし合わせると、ただちに採用し得ない)、したがつて当時その双方またはいずれかが開いていたこともあり得ること、また単調な生活の中にある留置人はわずかの音にも敏感であり、当時は静夜であつたことなどを総合すれば、斎木証言も充分これを肯定することができる。以上のような証人斎木および田島の各証言は、被告人がしたかどうかの点は別として、取調の警察官から頭髪を引張られたという点について、柴崎証言を裏付ける有力な証拠といわなければならない。

右のような各証拠を裏付として考えると、被告人から頭髪を引張られたとする柴崎証言を信用し得ると認めるが、他面、弁護人が指摘する稔陣の本公判の結果に対する利害関係、稔陣が昭和三一年一月になつて真犯人が出たことを知り、はじめて自分が無実であり、取調の際暴行を受けたと言い始めたという態度、稔陣の兄寅雄の知人栗田直寿と稔陣との関係、また稔陣の証言中の暴行を受けた際の稔陣と被告人との問答の状況、稔陣の証言には細かな数点について日により供述の異る点や、事実と相違している点があること、稔陣の数度の証言からうかがわれるとかくはきはきしない態度等の諸点をよく検討して見ても、稔陣が被告人からなんら暴行を受けないのにことさら作為して暴行を受けたとうそを述べているとは、とうてい認めることはできないのである。そこで進んで、柴崎証言のうち暴行を受けた日時、場所等に関する点について考察しよう。

(2)  被告人から暴行を受けた日時について

柴崎稔陣は、昭和三一年一月下旬ごろから自分が無実であり、また本庄警察署における取調中に暴行を受けたことを言い始めたのであるが、当時の稔陣の供述に関係のある証拠には、次のように本公判における証言と異つた点が見られる。

(イ) 前記野口警部が昭和三一年一月二三日に豊多摩刑務所で稔陣から事情を聴いた時の同人の供述では、「被告人に頭髪をつかんで引張られた日時は、昭和三〇年五月一四日の逮捕された日の午後日暮前と、その約四日後の午後。」となつている(証人野口武、同芝岡清吉の各証言および前出芝岡作成の稔陣の供述調書参照。)

(ロ) また、稔陣の兄寅雄が昭和三一年一月一七日と二〇日に豊多摩刑務所で稔陣と面会し、同人から聴取したところをもとに知人栗田直寿と相談して作成したと認められる浦和地方法務局人権擁護課長あての上申書(昭和三一年一月二五日付。昭和三二年押第五号の三)には、稔陣を取り調べた警察官の一人として被告人の名が記載されているが、稔陣の頭髪をつかんで背後の壁に打ちつけた者として宮島刑事の名が挙げられており、被告人が暴行をしたことは記載されていない(証人栗田直寿の証言および右上申書参照)。

(ハ) また、稔陣は昭和三一年二月四日に釈放されたが、その数日後に稔陣が栗田直寿の家で栗田の面前で語つたところを栗田がまとめて作成したと認められる浦和地方法務局人権擁護課長あての上申書(柴崎寅雄名義、同年一月二六日付。昭和三二年押第五号の四。なおこの日付は、証人栗田の証言により同人が日をさかのぼらせて書き入れたと認められる。)には、「逮捕の翌日五月一五日の夜に被告人と徳江刑事の二人に頭髪をつかんで引張られたが、頭を背後の柱に打ちつけたのは徳江刑事であり、またその翌日と記憶するが被告人に頭髪をつかんで引張られた。」と記載されている(証人栗田直寿の証言および右上申書参照)。

このように、稔陣の本公判における証言にくらべると、これらの証拠には異る点が見られるのである。しかし、もともと稔陣は本庄警察署に約一八日間留置され、その間ほとんど連日取調を受けたのであるが、その後二〇〇日余にわたる単調な刑務所生活ののちににわかに正確な記憶を呼び起こすことは、稔陣のような知能程度の者には多分に無理が伴うものと考えられるし、また前記野口警部、柴崎寅雄、栗田直寿は稔陣に対し単に被告人の暴行ばかりでなく全般の取調状況を尋ねているのであるから、被告人の暴行々為の有無はともかくとして、その暴行の日時を確定するについては、これらの証拠につよくこだわる理由はないと見なければならない。なお前記一月二五日付上申書には被告人が暴行をしたことは記載されていないが、この上申書は、寅雄が豊多摩刑務所で稔陣と短時間面会した時に聴いたところをもとにして作成したものであるから、稔陣が言い落したこと、寅雄が書き落したこともあり得ることであり、むしろ稔陣が釈放後に述べたところをもとにして作成された前記一月二六日付上申書がより信用に値すると見るべきである。

ひるがえつて稔陣の本公判における供述を見ると、稔陣は、「一五日と一九日に暴行を受けたということは、証人が最初から記憶していたのかそれとも他の人から尋ねられて言つたのか。」との質問に対し、「調べをする人の方でこの日は大体どんなことがあつた日であるかというようにきかれました。しかし、私としては、何日にどういうことをされたかということははつきりしていなかつたので、何日ごろにどういうことをされたと言つて来たのであります。そうして、私は、乱暴されたのは自分がやつたのだと言つて調書を取られた日であるということは覚えがありました。それで、調べる人から調書がまとまつている日に乱暴されたのではないかと言われてその日であるということになりました。」と証言しているが(第二回証言。なお、右問答の前後を省略したが、右暴行というのは被告人に頭髪を引張られたことを意味している。)、連日の取調の中にあつても事件について虚偽の自白をした時の状況が特に自白者の記憶に残るということは首肯し得ることであり、稔陣が被告人に暴行をされた時と自白した時とをことさら結び付けていると見るべき証拠や、そのほかこの証言を排斥すべき証拠は見当らないのである。また、五月一五日夜の事実にのみ関するものであるが、前に引用した証人斎木喬および田島重蔵の各証言は、被告人の行為であるかどうかは別として、日時の点についても稔陣の証言を裏付ける証拠として挙げることができる。なお、前に検討した諸証拠にしても、前記のような公判廷の証言と異る点がある反面、「被告人から頭髪を引張られたのは第一事件を自白する際であること。」(芝岡清吉作成の稔陣の供述調書)、「被告人から頭髪を引張られたのは一度にとどまらないこと(ただし、五月一四日の約四日後の午後ということであるが)。」(証人野口武の証言)、「五月一五日夜に第一事件を自白したこと。」(一月二五日付上申書)、「逮捕の翌日の一五日夜に被告人から頭髪を引張られ第一事件を自白したこと。その後にも(ただし、一五日の翌日と記憶すると記載されているが。)被告人から同様の暴行を受けたこと。」(一月二六日付上申書)などは、すべて、稔陣の本公判における証言と一致する個所である。

このように検討すると、結局、被告人に頭髪を引張られた日時は五月一五日夜と一九日夜であるとする稔陣の証言を正確でないと断定することはできないのである。

(3)  五月一九日夜の取調場所について

五月一九日夜の取調場所について考えると、当時取調に当り、または宿直した警察官は、例外なく小使室であると証言している。これに反し柴崎稔陣は、第一回ないし第三回証言において当夜の取調場所は宿直室に間違いないと確言し、その理由として「夜遅くまで調べられたのは一五日と一九日のみであり、夜宿直室に行つたのは一回だけであるから一九日夜の調べの場所は宿直室に相違ない(一五日夜の取調場所が小使室であることは明白である)。一九日夜調べられた部屋には電話があつた(小使室には電話はなく、宿直室にはある)。」などを挙げている。連日の取調の中にあつても第二事件を自白することはとくに記憶に残るべき事柄であり、したがつてその場所もとくに記憶に残つているのがむしろ自然である。また真実は小使室が当夜の取調場所であるならば、稔陣として宿直室と強弁する理由はない。なお、稔陣は「当夜の取調室に柱時計と配電盤(電気安全器格納箱)があつたかどうかは憶えていない。」と述べているが(第一回証言。なお宿直室には配電盤はあるが、柱時計はない。小使室には柱時計がある。)、稔陣の証言するように部屋の中央の柱を背にしてすわるときは、電話の存在は目につきやすいが、柱と配電盤は背後になるため目にはいり難い位置にあり(当裁判所の第一検証調書および検察官作成の実況見分調書参照。)、右証言は不合理ではない。以上のような諸点から、一九日夜の取調場所についての柴崎稔陣の証言は信用し得ると認められる。

(4)  取調の際の柴崎の位置について

柴崎稔陣は、一五日夜と一九日夜の両夜とも取調の際は部屋の奥の中央の柱を背にしてすわらされたと証言し、これに反して取調に当つた警察官は、一致して両夜とも柴崎は入口を背にして奥を向いてすわつたと述べている。この点について弁護人は、被疑者を取り調べる時は入口を背にして奥を向いてすわらせるのが取調の通例であると論ずるが、これは正規の取調室にはあてはまるとしても、本件のように小使室や宿直室を使用する場合には必ずしも妥当しないと考える。この点に関する稔陣の証言(第一回および第二回)にはとくに不合理なところはないのみならず、前記芝岡清吉作成の柴崎の供述調書(昭和三二年押第五号の五)および同調書作成の際に柴崎が書いた図面(同号の六)も、右証言を裏付ける証拠である。

(5)  取調の際の机の位置について

当時取調に当つた警察官は、一致して一五日夜と一九日夜の取調の際には柴崎稔陣の面前に横に長く机を置いて、机越しに取り調べたと述べ、また前記芝岡清吉作成の稔陣の供述調書および稔陣の書いた図面(押第五号の五、六。)によれば、部屋の奥の柱を背にして坐した柴崎の前に机が置かれ、被告人はその机越しに手をのばして毛髪をつかんだと記載されている。この点に関する稔陣の本公判における証言を見ると、「一五日と一九日の両夜とも机は部屋の北寄りにあつた。」(第一、二回証言)、「最初のうちは私の前にあつて、被告人は机の横から私の前に出て来て暴行をした。署長が来てから机を北寄りに動かした。」(第三回証言)、「一五日夜は、最初私の前にあつたが、あとで北寄りに移した。被告人に暴行をされた時には机は北寄りにあつた。一九日夜は憶えていない。」(第四回証言)というように一致しない点が見られるが、被告人に頭髪を引張られたのは机越しにではなく、直前に近寄つてされたものであることは一貫しており、この点は信用することができ、かつこれで充分と考える。すなわち、右の点が信用し得る以上、取調の際の机の位置を正確に決定することは、被告人の暴行事実の認定には必ずしも必要ではない(前記芝岡作成の稔陣の供述調書および稔陣作成の図面は、稔陣の正確な記憶に基くものではないと認められる)。

(6)  柴崎証言に対するその他の反対証拠

(イ) 五月一五日と一九日の両夜に柴崎稔陣を取り調べた警察官は、すべて一致して暴行事実を否定している。しかし、これらの諸警察官の証言は、稔陣の第一回ないし第四回証言、前記芝岡清吉作成の稔陣の供述調書、証人野口武の証言、前記上申書二通、証人斎木喬、田島重蔵の各第一回証言と対照するとき、容易に信用することができない。被告人の供述もまた同様である。

(ロ) そのほか、証人猪狩良彦、同小林寛、同加川福松の各証言、毎日新聞の記事(昭和三一年二月一六日付。昭和三二年押第五号の二)および弁護人が反対間接事実として指摘する被告人が温和な人柄であるということは、いずれも柴崎稔陣の証言を動かすに足りるほど有力な反対証拠であるとは認められない。

以上のような検討の結果、柴崎稔陣の証言を採用したのである。

第三情状について

前に認定した被告人の行為は、後述のように刑法に違反するのみならず、そもそも憲法第三六条、第三八条第一項に違反し、国民の人権を守るべき職責を有する警察官自身によつて虚偽の自白をなさしめ、無実の者に犯罪者の汚名を着せてこれに刑罰を受けさせるという重大結果をひき起こしたものであつて、軽視することを許さない行為である。

しかし、本件において柴崎稔陣が虚偽の自白をした原因を見ると、無論被告人の暴行はその一因であるが、柴崎の証言によれば、これが唯一のものではなく、ともに取り調べた他の警察官の態度にも遺憾の点が見られ、しかも深夜、畳敷の部屋で多数人で取り調べるという不当な取調方法自体を是認した上司の責任も見過ごすことができないのである。ただ、被告人はじめ諸警察官は、柴崎が犯人でないことを充分知つていながら同人に自白を強要していわゆる犯人のデツチ上げを企てたものではなく、捜査上の過誤が存するとはいえ、同人に疑いをかける根拠が全くなかつたものではなく、裏付捜査について相当の努力を払つたことが認められ、本件犯行は要するに、被告人が職務に熱心なあまり事件の解決に焦慮した結果ひきおこした偶発的行為と見ることができる。また柴崎は、いかに取調の状況が明らかになることの結果を恐れたとはいえ、当時検察官の取調にも、公判廷においても、また弁護人や家族等に対しても、全然その事情を打ち明けることなく第一審の有罪判決にそのまま服し、訴訟法上被告人に与えられた防ぎよ権をすこしも行使することなく終つたことも認められるのである。

また他面、被告人の経歴、性質、日頃の勤務状況等を見ると、被告人は、警察官となつていらい過誤なく勤務して来たのみならず、賀美駐在所に勤めることになつてからは、人知れずに貧窮者、行路病者をいたわるなどの善行のあることが見え、人情味ある人柄で、平素村民からもよく信頼されていたことが認められる。

刑の量定に当つては、右のような諸点を考慮すべきである。

第四法律の適用

被告人の前記柴崎稔陣に対する二度にわたる暴行々為は、いずれも刑法第一九五条第一項に該当するが、両行為はこれを包括して一罪として処断すべきであるから、所定刑中禁錮刑を選択し、その刑期の範囲内において被告人を禁錮拾月に処し、情状により刑の執行を猶予するのを相当と認め、同法第二五条第一項によりこの裁判確定の日から弐年間刑の執行を猶予することにする。なお、刑事訴訟法第一八一条第一項本文により被告人に訴訟費用の全部を負担させる。

なお、被告人の二回の暴行々為は、同一人の同一留置中に同一警察署内において、いずれも事件取調の際に同様の目的と方法で行われたものであつて、同一の構成要件に該当し、被害法益が同一であること、被告人は最初から両行為を包括的に予見したものではないが、右述のような本件行為の客観的事情によれば後の行為の犯意は前行為の犯意に継起したものと見ることができ、かつこのような継起的犯意も責任の評価の上からは両行為を包括的に予見した場合と区別すべき理由にとぼしいこと、両行為は一般的に見て同一捜査の及び得る範囲にあること、ならびに両行為を二罪として理論上各別の訴追および既判力を認めることは被告人の地位の安全を害することの諸点から考察し、これを包括して一罪として処断するのを相当と考える。そして、右述のように本件犯行の犯意が包括一罪の主観的要件を充たすことを明らかにするため、通例の用語に従い前記判示のように「単一の意思のもとに」という言葉を用いた。

第五訴訟条件について

本件は、埼玉弁護士会の告発、検察官の不起訴処分、同弁護士会の審判に付することの請求および当庁第二刑事部の審判に付する旨の決定を経て当裁判所に係属したものであるが、この過程に関する手続上の問題三点について一言する。

一、告発状における告発人の表示について

本件の告発状によれば、告発人として「埼玉弁護士会長柳沢己郎、同副会長相良有朋」と記載されていて、告発人が柳沢己郎および相良有朋であるのか、または埼玉弁護士会であるのか、当初明確ではなかつた。しかし、その後提出された埼玉弁護士会長古山貞三の上申書によれば(なお、告発後、同会々長は交代した。)、同人が昭和三一年五月三〇日に告発状の記載を「告発人は埼玉弁護士会であり、その代表者は会長柳沢己郎である。」と訂正すると申告していることが認められるが、これによつて告発状の記載は告発当初にさかのぼつて右のように訂正されたものと考えることができる。なぜならば、告発状における告発人の記載は、それが明確でないときは捜査官がこれを訂正させ得ると解してもすこしも支障がなく、かつ本件においては、検察官は当初から告発人を埼玉弁護士会と見て手続を進めているから、右訂正が告発当初にさかのぼつて効力を生ずると考えても手続の混乱を見ることはないからである。

二、埼玉弁護士会が本件を告発したことについて

弁護人は、弁護士会は公法人であることと弁護士法第三一条第一項の規定とを理由に埼玉弁護士会が本件を告発したことは同弁護士会の目的外の行為であり、したがつてまた同弁護士会は事件を裁判所の審判に付することを請求し得ないと論ずる。

しかし、弁護士法第一条に規定された弁護士の使命ならびに同法第四二条第二項に規定された弁護士会の司法事務に関する建議および答申権限にかんがみると、弁護士会が会として本件のようないわゆる人権侵害事件を調査し、告発することは、同法第三一条第一項に規定する弁護士会の目的を遂行するのに関連する行為と見るべきであり、したがつて弁護士会の権限内の行為と考えることができる。また弁護士会はいわゆる準公法人と見られるが、それは現行弁護士法上の強制設立、強制加入、懲戒権の行使等の公的性質を有するが、しかし本来技術的な諸規定からそのように言われるに過ぎず、弁護士会の実質はむしろ私人たる弁護士の自律的団体であることに存し、この立場から、法人として、本件のような人権侵害事件を調査、告発し、また刑事訴訟法第二六二条第一項により告発者として審判に付することを請求し得ると考えてもなんら弁護士会の本質に反するものではない。

なお、弁護人は、弁護士会に告発能力を認めるならば、もし告発の理由がなく誣告である場合に誣告罪により弁護士会を処罰することはできず、といつて被告発人が告発に賛成した弁護士を発見し告訴することは事実上不可能であるから、いわば切捨御免の不合理を認めることになると主張する。なるほど弁護士会は法人であり、誣告罪について法人の処罰を認めた規定はない。しかし、告発が誣告であるときは、その告発を主導しないしは支持した会員弁護士個人について誣告罪の成否を捜査し、場合により訴追し得るのであつて、しかも誣告罪の告訴には犯人の明示は必要でなく、被害事実の申告で足りるのであるから、弁護人が主張するような不合理を認めることにはならない。

三、告発事実と公訴事実との同一性について

本件を審判に付する旨の決定書に記載された犯行日時は、昭和三〇年五月一五日夜および同月一九日夜の二回であるが、埼玉弁護士会の告発状および審判請求書は、いずれもこれを同月二十六日頃と記載しているにとどまり、一見両者は事実を異にするようである。しかし、右告発状および審判請求書における事実の記載の全体を通読すれば、告発されまたは審判に付することを請求された事実は、ひろく柴崎稔陣および植原明が本庄警察署に留置されている間に、その取調の際に警察官が両名に対してした暴行々為と見るべきであり、右のように被告人が柴崎に対して暴行をした月日として五月二六日頃と記載したのは、告発人のその当時の証拠資料をもとに例示的に表示したに過ぎないと認められる。そして、検察官の当庁宛の送付書に添付された意見書によれば、検察官もまた被告発人等が柴崎および植原の留置中両名に対してした暴行々為の全般について判断していると認められるから、告発事実と公訴事実との同一性に欠けるところはない。

右に詳述した理由により主文のとおり判決する次第である。

この公判においては、埼玉弁護士会所属弁護士名尾良孝が検察官の職務を行つた。

(裁判長判事 大中俊夫 判事 田中寿夫 判事補 大久保太郎)

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